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下水管のテレビカメラ調査で「希望の光」を見出し、建設業を基盤に理想の企業経営に王手を掛けた物語。事業は法面保護や交通安全施設、構造物補修等の工事を展開する。新体操で世界を駆けた後、導かれるように就任した6代目は地域社会と共に成長を誓う。
「仕事が人々の命や生活を守ることに。社会貢献につながることが誇りになっています」。創業者で母親の園部志津子現会長から経営を託され、今年10月に丸2年の6代目。この先も受け継いでいきたい理念、と胸を張る。
かつて、「人柱が立たなきゃ梅雨は明けない」とまで言われていた鹿児島県。創業間もない頃から法面保護工事を手掛け、今年2月に40回目の創立記念日を迎えた。今では、交通安全施設や構造物補修等の工事も担う。
会社は鹿児島市易居町で産声を上げ、ドライクリーニングの取次店として1985(昭和60)年に事業を開始。同じ年から同市が導入した「降灰袋(現、克灰袋)」の入札等に参加し始めた。

時はプラザ合意翌年86(同61)年に始まる消費活動の活発化。当時、日経平均株価が最高値を付けた89年12月までバブルは膨らむ活気溢れる時代。この頃、建設業許可を取得し、法面保護工事業者として名乗りを挙げる。
既に着手していた下水道坑建設時の崩壊防止を目的とした薬液注入や、下水管のテレビカメラ調査が本格化。「そこに王手をかける。到達する」の意味を込めた社名から、「リ」の字をあしらう同社ロゴタイプ。管の先には「希望の光」が見える意匠が、名刺やヘルメットを飾る。
創業当時は小学生。「母から〝会社始めたから〟とだけ聞かされました。あとは何をしているのか分からなかった」。それだけに「今思うと、相当苦労したはず」。経営に従事して身に沁みて感じるという。

小学5年生から新体操を始め、学生時代は鹿児島純心女子学園で中・高を過ごし、東京女子体育大学まで新体操一筋。大学2年次、四大陸選手権が東京であり団体優勝し、同じ年のベルギーで行われたワールドカップは6位入賞を果たす。「自らの目標はやり切った」、と卒業後は清水建設東京本社に入社。秘書課に3年の後、営業経理を2年経験した。
母校の後輩を数年指導した後、2014(平成26)年入社。きっかけは「総務が大変そうだから手伝ってほしい」と声が掛かった。当時、既に県職OBが4代目代表として事業を承継。「時間の経過とともに後継者問題が表れたのでは」と園部会長の気持ちを推し量る。
4代目から常務として実務を学んだ後、3人目の県職OBがつなぎ、22(令和4)年、導かれるように代表に就任した。

一人娘が今春社会人となり「同じ大人同士。相談もできる間柄になった。そこが楽しい」。自らは、建設経理士、やグラウンドアンカー施工士等の資格に挑戦取得する。「とにかく後悔したくない」と、マハトマガンディーの「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」を座有に置く。
「仕事は逆算しながらやりましょう」と、プライベートの充実を図る。「以前、重複業務もあり、そこを見直した」。工事部と営業部との連携は不可欠。「いつも連絡は密に決定している」。働き方改革を問われる昨今、社員の福利厚生を第一に、今年も若手社員の採用を果たす。
「業種柄、女性は難しくないか」と外部の声も聞く。それでも、「会社を想う気持ちはだれにも負けない。皆の力を借りながらも頑張る」と会長に伝えると、背中を押された。ともに経営を担う親子鷹として、同社の挑戦は続く。