道路施設としての西田橋
2026年04月29日号(5面に掲載)
建設の背景
江戸時代の薩摩藩は、外様大名として幕府の監視下で参勤交代や木曽三川等の御手伝普請などにより財政的にひっ迫していったが、下級武士出身の調所広郷が登用されて、ようやく薩摩の「天保の改革」が始まる。
藩の年間予算が十数万両という中で、藩債500万両を年2万両ずつ250年間で返済するという事実上の借金踏み倒しや奄美大島、徳之島、喜界島の3島砂糖の専売制強化、さらには密貿易など様々な施策を実行し、50万両を備蓄するとともに200万両をつぎ込んで積極的に産業基盤整備を進めたとされている。この改革の成功が明治維新へと繋がる歴史の流れの中で雄藩薩摩の基礎を築いたといえる。
それまでの甲突川は、屈曲や堤防の凹凸等が多く毎年のように氾濫を引き起こしていたが、天保9(1838)年の氾濫を契機に、土木事業の主任技術者として肥後で評判の高かった岩永三五郎を招聘して、新上橋から下流について川幅の統一や川底の浚渫といった改修が始まるが、田畑が広がる右岸側の護岸を低くして溢れさせ、左岸側の城下を守る治水方式が採られている。
併せて毎年1橋という驚くべきペースで5つの石橋が築造されたが、橋梁部及び上下流の河床に切石を並べて石張りにして基礎の洗掘防止を図っており、これらは床止工として河床の安定にも寄与している。
ここに4~5連という長大石橋を5つも持つ我が国でも希有な城下町が誕生することになった。古来我が国では軍事上から城下の堀や河川には木橋を架けて石橋のような永久橋は架けないものとされてきたが、薩摩藩では維持管理の必要な木橋から堅牢な石橋に架け替えた。地理的に江戸幕府から遠いこともあるが、地方を 100以上の「外城」に分けて家臣団を屯田させるという外城制度を背景にして「城をもって守りとなさず、人をもって守りとなす」という考え方があり、城下への石橋群建設になったものと推測できる。
ところで五石橋には古くから「敵が橋の1つに押し寄せてきても,気付かれないように敵の背後を突くため、お互いに見通しが利かない位置に造られた(筆者注:最上流の玉江橋を除くと元々の街道筋にあった木橋を架替)」とか「橋のどこかの石を一つ取ると橋全体が崩れる」などの言い伝えがあるが、戦略上から意識的に広められたと考えるとおもしろい。

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