西田橋ものがたり① プロローグ
2026年04月08日号(5面に掲載)
西田橋がみてきた歴史/長谷場 良二 南日本技術コンサルタンツ
平成5(1993)年の8月5日から6日にかけて、鹿児島市を中心に襲った豪雨は、それまでの長雨で地盤が十分水を吸い込んでいたことなどもあり、市内を流れる甲突川、稲荷川などを氾濫させ市街地の500ha、1万3000戸余りが浸水した。
また、国道3号では甲突川沿いを走る鹿児島市小山田町で、長さ約80mに渡って陥没した。鹿児島湾沿いをJR日豊線と並走する国道10号では、鹿児島市磯から旧姶良町までの間で、竜ケ水の土石流をはじめ30カ所以上の土砂崩れが発生して巨岩が道路を覆い路上に 800台近い車が立ち往生するなど、各地で山腹の崩壊が発生し、鉄道、道路が寸断され、県都鹿児島市が孤立状態となった。
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「平成5年8月6日豪雨」と名付けられた、この集中豪雨は甲突川において浸水家屋数1万1586戸、五石橋のうち武之橋と新上橋を含む15橋が流失するなど、甚大な被害をもたらした。
県では、緊急かつ抜本的な対策として5年間で集中的に河川改修が実施できる河川激甚災害対策特別緊急事業 (以下「激特」と略す)等を導入し、併せて流失を免れた3橋は移設して保存することとなり、県道にある西田橋を県が、市道の高麗橋と玉江橋を鹿児島市が、それぞれ担当することになった。
その年の4月に河川課開発係に異動した私は、引き継ぎでは最大の懸案事項が、川辺ダムの事業費改定とダム本体発注であると聞かされていた。
それが8・6以降は河川情報システムの整備や総合治水対策の一環として学校校庭等の流域貯留、稲荷川の県単激特などが喫緊の業務として加わることになった。
当時、超多忙な治水と防災海岸の両係長に比べると暇そうに見えたのか、当時のO土木部長が講演された平成6年7月の(財)国土開発技術研究センター主催国際洪水セミナーの資料作成手伝いを指示された。
さらに川辺ダムの本体発注を終えた頃には、長崎・中島川眼鏡橋と諫早眼鏡橋という被災後に復元された石橋のO土木部長視察に随行することにもなった。
すると、平成7年4月には都市計画課に異動となり、5月末までに西田橋移設の指定文化財現状変更許可申請書の作成を命ぜられることになる。それから12年4月に石橋記念公園が開園するまでの5年間、専任の技術主幹として新旧の西田橋を担当することとなった。
それから早や四半世紀が経過した。移設地の西田橋しか知らない世代が増えていく中で、この事業に関わった者として改めて振り返ってみたい。

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