鹿児島建設新聞

センテイ 久場 眞三 氏

Profile

  令和元年9月の代表就任から3年。創業77年目を迎える県内屈指の建材商社の舵取りを担う。座右の銘に「峠のない努力」を掲げ、飽くなき挑戦を誓う。鹿児島市出身66歳。

 鹿児島市の中心市街地に程近い錦江町は、同市北西部の八重山に源流を持つ甲突川左岸河口部にある。源流とされる甲突池近くの入来峠を超え、さらに北西へ進むと市比野川や樋脇川の流れが注ぐ川内川だ。JR川内駅に差しかかると、創業の地・薩摩川内市宮里町が目と鼻の先になってくる。
 創業者の故・栫井民男氏(2020・令和2年逝去)は、太平洋戦争終結の翌年1946(昭和21)年、この地に伸線・製釘工場を創設した。2年後、鹿児島線釘工業㈱を設立し、同年、本社を鹿児島市加治屋町に移転。その後、熊本県八代市や指宿市などに営業所や加工工場の開設を進め、73(同48)年、社名変更し㈱センテイが誕生した。
 高度成長の波に乗り、同社も事業を拡大。本社のある錦江町に移転したのは翌74(同49)年。建材部門をはじめ建築・土木のほか、石油販売やNECグループとの業務提携、家電量販店の店舗展開なども手掛け、県内屈指の総合商社として名乗りを上げていた。

倉庫と社屋

 4代目となる現社長の久場眞三氏は、鹿児島経済大学(現、鹿児島国際大学)を卒業し、社名変更から6年後の79(同54)年に入社。九州にも高速道路が伸び始め、当時、栫井社長は「鹿児島まで整備されると流通エンドユーザーが変わる」と社員に訓示。久場氏は「釘屋から身を興し商社まで会社を育てた民男氏には〝先見の明〟があった」と創業者を偲ぶ。
 久場氏には、同社社歴に空白の時代がある。日本経済のバブル景気崩壊は、内閣府によると91(平成3)年。これに先立つ88(昭和63)年には退職し、2015(平成27)年に復職した。実際には、前年14(同26)年3月から、事業再生の使命を帯び、地元金融機関より出向する形で取締役営業本部長に就任していた。
 「古巣に呼び戻されたからには、人員整理は回避したい」。そうした思いを胸に、今「人育て」にまい進する。冬場だと日の出前から、勉強会や地域の清掃活動など、毎週趣向を変えたトレーニングを実践。特に若手社員向けには「ランチェスター講座」を開き、一緒に弱者戦略を学ぶ。そして、今年3月、SDGsを宣言。「社会の進歩発展に貢献する企業」を掲げ、「地域密着型百年企業」を目指している。

朝礼風景

 「帰ってきたウルトラマン」を地で行くような久場氏には、4人の〝人生の師〟が存在した。創業者が「経営の師」とすれば、奄美加計呂麻出身で㈱リモテックスの中林生貴氏を「営業の師」と仰ぎ、西日本エリアを任された。「人間学の師」と傾倒したのが、医療商社・㈱キシヤの末石蔵八氏。「社内木鶏会」などを通して薫陶を受けた。
 4人目が「実践の師」となり、地元金融機関の当時の頭取から、「恩返しの使命」を受けた。久場氏の次兄で先代の久場眞氏のガン発症が契機となり、「眞三を呼べ」と白羽の矢を立てたのは民男氏自身だった。久場氏は、経営の師と実践の師から、ともに「グループの柱となり、創業の企業文化を守れる人間は他にいない」と背中を押され、創業家との関係にも大ナタを振るった。

KSプラントと従業員

 「恩返しの使命」について、久場氏は「転機節目の都度、人生の師から手を差し伸べられ、適切な助言をいただいた」と語る。そして、センテイ退社の3年前に亡くした長男に祈りを捧げるかのように「人育て」を実践する。
 現在、建築・土木資材の総合卸および工事請負事業を展開し、屋根材のほか外壁にも活用が進むSGL鋼板は県内一の取扱量を誇る。鹿児島市西別府町のケイエスプラント大峯工場では、時間当たり最大280m3の生コン出荷が可能だ。日置市美山の板金加工場、指宿・川内の各支店、通信事業部などに総勢73人が勤務(22年4月現在)。過去5年間の売上高実績は年平均24億円余に上る。

更新日:2022年05月

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