鹿児島建設新聞

丸福建設 谷口明広

Profile

鹿児島工業高校機械科卒業。調理人に憧れ約3年間フランスや国内のレストランなどに勤務後、帰省。家業の丸福建設に入社、購買部、営業、総務課勤務を経て平成9年から取締役、平成14年から2代目社長。県建設業協会鹿児島支部副支部長、鹿児島市建設業協同組合理事長、県森林土木協会副会長。妻と4男の6人家族。趣味は高校時代からの登山。キリマンジャロ登頂の経験もある。好きな言葉は、孔子の「一を以て之を貫く」。鹿児島市出身の58歳。

同社は昭和24年(1949年)に創設された合資会社・末吉組が前身。公共工事は、当時自治体が直轄で行うのが主流で土木作業員を供給していた時代。末吉組はその役割を担ってきた。明広氏の父で創業者の屯氏(現会長)が富士製鉄を退社後、経営を引継ぎ末吉組を吸収する形で昭和33年(1958年)に丸福建設㈱を創業、経営基盤を築いた。
社名は、末吉組のオーナーから福の字をもらい、おさまりがよく縁起のよい社業発展の願いが込められている。名前の屯は、屯田兵の一字を引用、開拓魂の気概が感じられる。屯会長は昭和33年に発生した古仁屋大火(2250世帯中1000世帯が焼失)を契機に瀬戸内営業所を開設、機動力を生かして復興事業に尽力。昭和43年には、南大島アスファルト合材センターを設立、島内一円の道路舗装事業を推進するエンジンの役割を果たした。平成28年の町制60周年記念事業で町民栄誉賞に輝いた。そこには「奄美を早く復興させたい」という屯会長の強い情熱があふれる

その後、奄美は本土に復帰、奄振事業が本格化したこともあり、特別枠で国の予算がつき、大きく発展を遂げた。このため瀬戸内営業所の完工高は順調に推移、一時期本社実績を上回るほどで、会社発展に大きく寄与した。この間、県内のほかの大手地場建設会社も奄美に営業拠点を開設、受注競争にしのぎを削った。

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調理人を目指していた明広氏は3人兄弟の次男。父の声掛けもあり帰省、総務の購買部に入り、その後土木、工務、資材、経理部などを歴任、各種資材をまとめて購入するなどコスト意識の重要性を学んだ。金を出し入れする重要な部署で、経理面から企業経営を支える裏方として活躍した。法整備や法の施行が先行、現場(施工)が後追いする現状に疑問を感じながらも、変化する市場を読みながら丹念に実勢価格などを調べ、効率よく的確に対応する術を学んだ。技術が会社の資産という観点から社員の資格取得も強化、技術士など、その数は70人にのぼる。

平成14年から現職。会社の経営理念にもしっかり磨きをかけ、社員の融和に力を入れた。会社のホームページには「夢を実現—未来を耕す企業」とある。県内トップクラスを誇るトンネル、ダム、舗装工事。そこには常に確かな品質、夢を形にする技術者と情熱を持ったスペシャリスト集団がいるという自負がある。
平成元年には故二階堂進氏直筆の「和」の書の贈呈を受け、これを正式な社是とした。これまで培ってきた技術者魂、社員一丸となった「和」の精神が経営理念と一致したこともあり、これをベースにしている。今年は、大きな節目となる創業70周年。社員一人ひとりが会社を好きになり、互いをリスペクトする関係や仲間意識が醸成されることで、お客様を心から大事に思い大切にできる。その思いと戦略を共有しながら前へ進む。

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社長に就任して数年が経過、公共工事が減少し受注環境が厳しくなった時期に職員を大量にリストラしたことがある。「会社が生き残るための決断だったがこの時が一番辛かった」と、振り返る。その時の教訓として、「会社経営は、いい時も悪い時も社員に支えられているという思いを持ち続ける」ことの重要性を心に刻み、「お互いがコミュニケーションを図りながら〝チーム丸福〟を全員で支え合う」というチームワークの大切さを噛みしめる。発注の平準化、外国人労働者の受け入れなどよりグローバルな視点からの働き方改革が叫ばれる中、ベテランが若手を指導して、より働きやすい職場環境をつくりだす工夫にも余念がない。

2代目は、「創業70年の歴史の重さと、これまで会社を支えて来てくれた人たちに感謝。これからも基本を守りながらさまざまな視点から現状を認識し、より広く深く掘り下げる経営を目指したい」「そして地域に根差して必要とされる会社を目指したい」と節目に誓う。

更新日:2019年5月

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