Profile
大隅北中・甲東中学校、甲南高校から鹿児島大学農学部の農業土木学科に入学。大学2年だった1967年に鎌田石油を立ち上げた。1973年に重機施工会社を法人化、1986年鎌田建設に商号を変更、イエローハット事業など展開、社会福祉施設等異業種にも参入、鎌田グループとして大きく飛躍した。今年4月、節目となる創立50周年を迎えた。三男一女に恵まれ、後継体制も万全。霧島商工会議所会頭。現在は妻・律子さんと2人暮らし。趣味は造園なども含めた農業。会社は同市国分敷根141。曽於市大隅町出身。70歳。
霧島地区を中心に、幅広く総合建設業を営む鎌田建設を核とした鎌田グループ(10社)を率いる。一貫した現場主義、地域密着で数々の工事を受注、大きく成長させた。ひたむきに前を向き、「おかげさま」でという感謝の心を社是に掲げ、凡事徹底で業容拡大を図っている。
家業の農業を継ぐことには、それほど積極的だったわけでもなく、「医者になるなら継がんでもよか」と父・安政さんから言われ、一時期医学部を目指したこともあった。しかし、本人が選択したのは医者ではなく、農業土木学科。学生生活を送っていた頃、父と立ち寄った国分市敷根のラーメン屋で、店主から「亀割にバイパスができるから何か商売をやらんね」と、声を掛けられたのがきっかけで、誘われるままにガソリンスタンドを立ち上げた。昭和41年に国道10号の亀割バイパスが開通、七十七曲がりの難所と言われていた道路状況が劇的に変化、モータリゼーションに拍車がかかり始めた頃で、好立地にも恵まれ繁盛した。その後、事業の軸を総合建設業に移し大きく飛躍した。
19歳でガソリンスタンドの経営者になった善政の背中を後押ししながら見守る父の姿があった。母方の祖父・原田善吉氏は、敷根給油所の落成式で「皆様の厚き情けにすがりつつ 今日の良き日を祝う祖父(じい)かな」と、詩を贈った。合わせて江戸時代に活躍した渡辺崋山の商いの心構え〝商人八訓〟にも触れ、心に留めるよう励ました。
オープンした敷根給油所は、約50坪の中規模クラス。従業員3人体制。周囲にはまだ田んぼが広がり、車社会が始まった頃。錦江湾に広がる桜島を見ながら往来の運転手がホッと一息つける人気スポットだった。好立地も手伝って客足は順調。利益率の高いパンク修理なども多く、宿直をおいて夜中も対応、年末年始には1日100万円を売り上げていた。「うちは鎌田さんだけ」というリピーター客が増加、中には途中で引き返して給油に訪れる客もいて商売は繁盛。周辺にはドライブインなどが開業、にぎわいを見せた。そのころから次第に商売にのめり込むようになった。
店には建設車両や営業車両が日増しに増え、売り上げは順調に推移。そんな中、同店を利用していたダンプ業者の経営状態が悪化、好意で支払期限を引き延ばすうちに回収不能金は1500万円まで膨れ上り、初めて窮地に立たされた。ある日、建機販売の営業マンから「下取りした中古ブルドーザーを買わないか」と持ち掛けられ、120万円(無利子で24回月賦)で購入。「亀割ブルドーザー」の屋号で重機施工を始めた。父には内緒だった。窮地に立たされたとは言え、大きな賭けだった。
しかし、公共事業が順調に増加。亀割ブルドーザーは、下請けで県内の現場に駆り出された。台数を増やし、オペレーターも増員してフル稼働。売り上げの柱に育ち、大きな救世主となった。1973年に重機施工事業を法人化、国分重機リースを設立した。好況が続く中、資本金を増資、保有台数も100台に増えた。業界では、当時「重機屋か」と、見下されることも少なくなく、下請けのままでは仕事が回ってこない状況も見え始めていた。そこで総合建設業へ転換することを決断、1986年に鎌田建設㈱に商号を変更した。
これまで、さまざまな業種に参入してきたが、あくまで建設業としての考えは揺るぎない。グループ全体の売り上げは約100億円。従業員も500人を超えた。建設関連事業は全体の半分を占め、民間30億円、公共20億円。「公共事業は年々減少傾向が続く。時代の変化を読み、危機感を持ち、事業全体のバランスを考えながら持続できる安定経営を目指してほしい」と、後継予定の子息にエールを贈る。
「企業の財産は人。それを支えるのは教育。一番忘れてならないのは地域社会への感謝。総合建設業の基本は技術、高い施工能力、そして深い信頼。常におかげさまでと感謝しつつ、汗水を流して働くこと。イエローハットの創業者・鍵山秀三郎氏から学んだ、心を磨く掃除道の精神と、凡事徹底を実践することが企業の発展につながる。これこそが経営の柱」と胸を張る。
更新日:2017年8月