鹿児島建設新聞

時吉電機 時吉洋三

Profile

薩摩川内市は、元々バスケットボールが盛んな土地柄。そこで育ち中学、高校、社会人とバスケット漬け。高校時代からオフェンス能力が高く、俊敏な動きでショットを放ちゴールを決める身体能力の高い選手。子ども4人も全員バスケットボール部経験のあるバスケット一家。長男は、立命館から社会人一部の選手として活躍した。現在は、川内高校女子バスケットボール部、県民体育大会川薩代表チームの監督を引き受け、優勝に導くなどこの道一筋40年。コーチとしての指導力は、誰もが認める熱血漢。同市バスケットボール協会副会長。JBA公認D級コーチを務める。好きな言葉は情熱。現在、由美子夫人との2人暮らし。薩摩川内市出身。67歳。

家業の電気工事業を営みながら、昼は仕事、夜は高校バスケットボール部のコーチという二足のわらじを履き活躍している名コーチがいる。「バスケットは楽しい。面白い競技だからね。まさにぼくの人生」と、きょうも後進の指導に熱が入る。かつて元実業団リーグでならした名選手のバスケットボールにかけるひたむきさが伝わってくる。

表彰状や感謝状をバックにバスケットボールを手にする時吉コーチ

身長173cm。川内北中学校時代からバスケットボールの選手として活躍、さほど大きくはないが川内商工高校のバスケット部在籍中は高い得点力を誇り、同校が三連覇を果たした当時の全国高校バスケットボール鹿児島県予選では、常にチームの中心選手だった。オフェンスが得意で、ショット、フリースローにも自信を持っていた。ポジションはフォワード。相手をかわし、ゴール下から繰り出すショットは正確で入る確率も高かった。インターハイ、国体にも数多く出場。まさに同校バスケットボール部の黄金期を築いた一人。

「入部のきっかけは、野球部に入る選手が多くなんとなく兄が在籍していたバスケット部へという単純なものだった。しかし、家が貧しく靴下はかかとの破れを隠すために試合中に何回もひっくり返して履いていたことも…」と、照れ笑いして当時を振り返る。

時吉 洋三 氏 高校時代の活躍もあり、就職は先輩がいた愛知県の豊田工機へ。「同級生の中でも一番早く就職先が内定したのを覚えています」と、屈託がない。仕事は、油圧制御装置の設計。働きながら好きなバスケットが出来る喜びに浸った。当時チームは、愛知県の実業団リーグでは6位だったが、めきめき力をつけて2部まで昇格した。選手層も厚く実力のあるチームに育ち、6年間在籍した。

しかし、その後家庭の事情でUターン。地元の植村組に就職するが「自分で事業を始めたい」という思いが強くなり、2年で退職、高校の電気科卒業だったことから近所の電気店で2ヵ月間無給の修行を経て、昭和57年11月に独立開業した。

「苦しかったが自分の夢を叶えるため必死だった。バスケット魂で培った根性で乗り切った」と、建設業、第一種電気工事士、一級電気工事施工管理技士などの資格試験にチャレンジして事業に必要な資格を取得。若い頃は、消防団の班長も務め、消防操法大会に出場するなど活躍した。

Uターン後は、地元・亀山小学校のミニバスケットボールチームから指導依頼の声がかかり、監督に就任。13回県代表として出場する強いチームを作り上げた。「やり始めたらのめりこむタイプだから」と、笑うが、その卓越した指導力を周囲がほおってはおかなかった。

バスケットボールの指導者として活躍する一方で、事業も比較的安定して推移。いろいろな縁ができて、仕事につながったことも多い。顔、人脈が広いことが好結果を生んだと思っている。各種工場の電気設備、配線、機械設備など仕事には恵まれている。「技術と経験を生かし、お客様に気にいられる仕事をやる」というのが仕事のモットー。

その後も川内純心高校、川内高校などからコーチとしての依頼が入り、現在もコーチの仕事が忙しい。競技の基本、いいチームの育て方については「あいさつ、礼儀作法がちゃんと出来て、けがをしない強い体をつくり、元気よく声を出すこと」と言い切る。チームがピンチの時は、選手に気合いを入れ、チャンスの時は〝時吉スマイル〟で気持ちを乗せる術を知っている。チームづくりの達人である。

「ここ数年間で知り合いの指導者が相次いで亡くなりさびしい。ぼくももう年だからね。でもあと2年半は頑張りたいね」。名コーチは、自分の定年を70歳と定め、活躍している。

更新日:2015年12月

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