鹿児島建設新聞

鹿児島ドック鉄工 野元 達美 氏

Profile

 「生まれが串木野だったから自然とそうなった」。空前の造船ブームの時代に入社し、6代目の代表に就任。多くが修繕や改造工事になったものの、船の建造技術を次代に伝えていきたいと語る。。

 鹿児島で初めて国民体育大会が開かれた1972(昭和47)年4月、長崎造船大学(現、長崎総合科学大学)を卒業し入社した。原油需要の増大などから船舶も大型化。国内では空前の造船ブームに沸いた。その16年前の56年、日本は世界一の建造量を誇っていた。
 当時、新川河口右岸に広がる鹿児島南港にあった会社は、藤崎忠敏氏が代表を務め67(同42)年に創業。鹿児島機械金属工業団地協同組合の関係7社の出資と、県の高度化資金の支援等を受け、「県内でも造船を」と設立された。
 県のホームページによると、南港は66(同41)年に完成し、石油タンカーが月間約100隻入港していたという。会社には2000G/Tの船舶修繕が可能な乾ドックのほか建造用の船台もあり、5700G/T(全長約130m)のパルプ運搬船なども建造。また、作業台船65隻を含む128隻が建造され、「工場は本工だけで200人、協力業者も入れると常時7~800人が働いていた」。

【創業地に残る乾ドック】~空撮および海上撮影の2点

 「生まれが串木野だったから。自然とそうなったのでしょうね」。卒業した串木野高校は港に程近く、遠洋マグロ漁船の出入港を間近に望める。また海上保安部の基地もあり、巡視船等の船も出入りする。
 大学では船の建造技術を学び、入社後は先輩技師に付きながら、技術や工程等の管理に従事。「造船技師として技を磨く機会をもらってきた。恵まれていたと思いますね」と振り返る。
 さらに、78(同53)年、労働省(現、厚生労働省)の第10回青年技能労働者西欧派遣員に選出され、全国からの12人のメンバーと共に、1カ月半にわたりドイツで研修。マイスター制度などを習得した。

【工場正門】~入口付近から撮影

 「最後まで研修を受けられたのですが、出発前に〝途中で帰国になるかも知れない〟と告げられていました」。この翌年1月、会社は倒産。変動相場制への引き金となったドルショックが要因だった。「社歴11年程度では体力が持たず、75(昭和50)年前後あちこちで造船所が倒産した中で、最後まで頑張ったほうでした」。
 更生法が適用され和田久弁護士を管財人に15年間の再生計画に着手、80(同55)年9月には今の七ツ島1丁目に移転。海上保安部OBの柳田修氏が経営を引き継ぎ、鹿児島銀行OBの中村隆光氏が3代目を務め、手続き開始から7年目の87(同62)年に終結した。
 「七ツ島に来てからは船舶修繕がメイン。船の仕事でも基本的に、営業・技術面で全然違う」。4代目から生え抜き社員で持ち上がり、渡辺森成氏、伊地知満雄氏が代表を務めた後、2010(平成22)年6月、6代目に就任。現在、船の定期検査等を踏まえた修繕が8割。また、連絡橋等の港湾施設工事が1億円前後で推移している。

【現工場浮きドック】

 船の建造は受注生産。引き合いを受け、ゼロから設計を起こす。「契約~起工~進水~引き渡し。小さい船でも一緒。やっぱりそれを残したい」。多くの受注は総トン数19t前後(長さ約18m)の小型船舶ながら、2年前には同65tの油回収船を日石喜入基地に納めるなど、造船技術を次代につなぐ。 
 これまでに、港湾工事を担う作業台船、県所有の清掃船「きんこう」や、遠洋で操業する巻き網漁船の補助船となるアルミ船舶の建造など実績を重ねる。現在、総トン数5500t1基、1600t1基の浮ドック等を装備し、巡視船や高速船、フェリー等多彩な船の検査・修繕、リフォーム等を担う。
 工場常駐の専門工事業者は2代目、3代目を含む22社約120人。溶接や塗装、仕上、電気、大工等実に多様だ。また、弁護士法人和田久法律事務所、ツネイシホールディングス(広島県)、地元ナカムラや加根又本店、社員持ち株会が株主だ。「22歳で入社以来52年間お世話になっている。後任は、いま最も気になる課題」。社長就任時に示した理念にある「関係先との長い付き合いができる環境づくりが一番」と語る。

更新日:2023年11月

お知らせ

    CPDS・CPD認定講習会

    新聞購読お申し込み メルマガお申し込み

    KISS-WEB会員情報を無料で
    お試しいただけます

    無料体験申込

    デモはこちらから↓

    KISS-WEB会員情報デモ版

    PR情報

    アンケート調査