鹿児島建設新聞

鹿児島建材 八反田 巧 氏

Profile

 社会人1年目は倉庫の入・出庫作業を通して多種多様な建材を学ぶ。配属部署では板金工との出会いを通して、夏冬過酷な屋根工事の現場を知った。独立後、2年足らずで鹿児島市和田一丁目に、現在の社屋を新築。そして今、経営者として板金職人を育て、活躍の場をプロモートする。67歳。

 「粗利で一千万円稼げる目途が付いたからね。独立することになった理由の一つかな」。訥訥とした語り口ながら、内に秘めた負けん気の強さが滲む。古巣の建材問屋(㈱センテイ)を退職した1992(平成4)年から、既に30年余りの歳月が過ぎた。
 税理士などを目指し、会計研究部に所属した大学時代。当時、学友会運営費の監査担当者として帳簿を検査し、数字の突き合せで折衝を重ねた相手の1人に、久場眞三氏(現㈱センテイ代表=バックナンバー・vol.100)の顔もあった。久場氏の1年先輩ながら「同期の桜よ」と振り返る。
 ゼネコン等建設会社を担当していた久場氏によると、鉄筋100t売っても一千万円に粗利3%。一方、板金コイル(帯鋼=薄鉄板)や波板、雨樋等樹脂製品の売上げ300万円で粗利150万円。「利ざやを稼ぐ仕事人だった」とリスペクトする。

倉庫内で待機する板金コイル

 原点は、「板金屋さんの担当になったこと」。加えて、「当時の金物屋さんにも助けられた」。また、「値段もだけど、スピードが大事だね」。現場の手待ちを抑える配達を心がけた。
 それでも、夕方時々、早くから若い女性を車に乗せて帰る姿を目撃される。久場氏は「夜討ち朝駆けならぬ、夜駆けをしていたことを後で知った」という。板金職人は、その日の現場が終わると自宅作業場で曲げ加工など、次の工程へ準備をした。
 「配達はしても、仕事の話はできないからね。訪問先を決め、営業は夜だった」。時に晩酌の相手をしながら、注文をもらって、後に夫人となる郁代さんの待つ車の助手席に帰った。

社屋外観

 メーカーとの仕入れ交渉が、社内で自由化されたことが転機になった。「伝説の御用聞き」になっていた営業マンは、水を得た魚のように業績を伸ばす。そして、売上げ、回収、粗利のいずれも100%を達成。ところが、給与査定で「皆と差があるとあれだから」との回答に絶句した。
 「独立するなら今だな。定年まで勤め上げようと思っていたけど」。会社に仕向けられたと理解した。37歳だった。
 「捨てる神あれば、拾う神あり」。鹿児島市の新川河口で電飾サイン工事等に従事する港崎 擴氏に助けられ、氏の営む(有)中央ネオンの2階を借り独立した。社名の名付け親にもなってもらった。

社内の二人

 「当時の顧客に助けられ、食べていければと始めた会社」。現在、工務3人(うち営業兼任1人)のほか、八反田代表を慕って同じ古巣から入社し、取締役を務める坂口成博氏が代表とともに営業を担当する。また、事務を担う長野祐子氏も、同様に顔を揃えた。
 建材販売から工事会社に成長し、完成工事高は年間約3億円で推移する。若手板金工も5人が巣立ち、今、平均年齢40才の常用工7人の活躍する場をプロモート。さらに、環境問題を考慮し、宇宙工学から生まれた遮熱シート「リフレクティックス」の普及に取り組む。設計段階の折込み交渉も展開しつつ、生き残りを掛ける。
 「伝・秀頼の墓」の近くにあたる鹿児島市谷山塩屋町(現谷山中央4丁目)出身。「金属屋根工事に係わるのは、祖父が瓦職人だった縁もあるのかな」と子どものころの記憶を呼び覚ます。孫との山登りが貴重な時間になっている。

更新日:2023年01月

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