鹿児島建設新聞

藤井建設 藤井和三郎

Profile

れいめい高校から九州産業大学工学部土木学科に進んだが中退して帰郷、家業の土木会社を継ぐ。建設業を営みながら農業も事業の柱に育てる。県建設業協会大口支部長の要職を務める。主力事業は土木8割、建築(リフォーム)、造園などが2割を占める。約10年間、大口ラグビー協会会長も務め大口高校OBを中心とした社会人チームの育成・強化に力を入れた。若い時はハーレーでツーリングをしていたが、今は居酒屋巡りが趣味。家族は子ども4人の6人家族で、現在は美雪夫人と2人暮らし。子息2人も後継者として勤務。結婚記念日には、毎年美雪さんにバラの花を贈る。伊佐市出身の63歳。会社所在地は同市大口里126。

「親父は非常に仕事に厳しい人でした。だから昔は寝る間もなく働きました、と言うより、こなされましたネ」と、若かった頃を振り返る。怒ったように聞こえる口調の鹿児島弁、争いごと、大声や荒い言葉が嫌いと言う心やさしい元ラガーマンは、地域とともに生きる—を経営理念に据える。いつも穏やかな人柄が印象的。農業にも参入、地域を支える。名刺でふるさとの焼酎をPRするあたりにも郷土愛が根付く。

大手ゼネコンに勤務していた父の勇夫さんの専門は隋道工事。鹿児島県内の大隅、霧島などの勤務を経て牛尾鉱山の工事に携ったのが縁で大口市に定住、会社を辞めたあと昭和29年に同市で土木会社を創業した。

2代目の和三郎さんは高校時代、剣道、ラグビー部でならした。身長178cm、体重100kgと体格にも恵まれ、一時期は将来を嘱望された元ラガーマンは高校卒業後、福岡の大学へ。「小、中学時代から家業のアルバイト経験があり、よっぽど性にあっていたのでしょうね」と、本人が言うようにアルバイトが本業のようになってしまい、大学を中退、建設業の道を歩むことになった。

アルバイト先は、福岡の中堅土木会社。建設技能者としての知識や経験もかなりのレベルのものを身につけ、「うちに来ないか」と誘われたこともあるほど腕を上げていた。

施工事例

ある日、父と弟が来福、「ぼちぼち帰ってきて欲しい」と懇願された。「大口は〝鹿児島の北海道〟と言われる寒冷地。自分に屋外労働が勤まるだろうか」と、不安が頭をよぎったが昭和51年にやむなく帰郷した。当時は、県内いたるところ、まだ砂利道が多い頃。主要道路の県道、市道、町道などは未舗装で山越えの峠も砂利道。舗装工事専門の会社もまだ少ない頃で、「帰れば使いこなされる」との思いが強く「このまま帰れば地獄」という予測は的中した。

当時は、土木作業員の日当が460円の頃。多くの現場を抱えて毎日、舗装作業などに明け暮れた。現場から帰ると、「従業員が勤務を終えて帰ったあとの2時間が儲けだ」と、父親に尻を叩かれた。「一番辛かった。見つからないように、わざと夜中までダンプを乗り回していた時もあった。その父が心配して玄関口で私の帰りを待っている姿を何度か見掛けたこともある」と、当時を懐かしむ。

帰郷後は、「自分ができないのに従業員を指導できるか」「現場を何ヵ所も持たされて一切合切、責任を持ってやるように言われて本当に大変でした」と、中小企業の大変さを肌で味わい、同時に仕事の厳しさも教えられた。その厳しかった父も昭和63年に63歳で他界した。

当時、専務だった叔父から仕事の段取りや経営者としての資質をみっちり叩き込まれ、昭和63年に社長に就任、現在に至る。

藤井和三郎代表取締役社長

この間、公共工事が減少傾向を見せる中で建設会社では従業員のリストラなどが相次ぎ、業界は苦境の時代を迎える。そんな中、市の委託事業でリサイクル施設を立ち上げたほか、農業に参入するなど知恵と工夫で苦難を乗り越えてきた。建設業は社会貢献企業との思いが強く、東日本大震災では被災地に8人の社員を派遣、自家製の小松菜の漬物も何回か送り感謝された。ボランティアでは、清流会を立ち上げ、長年に渡ってまつりなどの地域活動にも貢献した。

農業参入では、13haまで規模を拡大、サツマイモを中心にカボチャ、にんにく、ニンジン、そばなど多彩な野菜づくりに挑戦。建設業者が農業経営にチャレンジした特異なケースとして注目を集め、全国から様々なメディアが取材に殺到した。

戦後、開拓されたものの荒れ地となった中山間農地の整備を手掛けたこともあり、巨額の投資を余儀なくされたこともある。それでも地域のため、社会のためという思いを今でも貫いている。

更新日:2016年1月

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